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中村澄子さん、原爆の体験を語る(2006年7月)


「私の原爆体験」


中村澄子、広島在住

私は中村澄子と言います。広島県三原市に住んでいます。

今から61年前の昭和20年8月、私は安佐郡伴村(現在の広島市安佐北区沼田町)の国民学校6年生でした。


8月6日、月曜日、私達は教室で1時間目、修身の授業を受けていました。今なら学校は夏休みですが、当時は学校施設の半分以上が軍隊の荷物を入れるために使われ、教室が少なかったので、生徒は朝から学校と昼から学校とに分かれて夏休みも無く、授業がありました。


1時間目が始まって間もなく、南側の窓ガラスが「ピカッ!」と光ったかと思うと「ドオン」とものすごい大きな音がしました。私達は、日頃の訓練のとおりに、すぐ防空頭きんを被り、机の下にかがみました。その瞬間、爆風が来ました。


その後、先生の引率で裏山に退避しましたが、そこから先ほど光った方向を見ると、山の向こうにムクムクと大きなキノコような雲と煙が立ち上がっていました。


30分位経って上級生が下級生を引率して帰宅することになりました。3キロ余りの道を帰って来た時、南の方から大きなトタン板(畳半分くらい)、鉄片、焼けた板切れ、ボロきれなどが、バラバラと飛んでというか降って来ました。


それ等に当らないように気をつけて帰って来ましたが、家が近くなった頃、今度は大粒の真っ黒い雨が、夕立ちのようにゴミと一緒に降って来ました。見る間に近くの川は、黒い水が流れ、その中にハヤ、スナズリ、フナ等の魚が腹を返して流れてきました。


私たち子供は、喜んでその魚を手づかみでバケツなどに一杯採りました。私も持てるだけ持って帰りましたが、母から「これは毒で死んだ魚だからすぐ捨てなさい」と叱られがっかりしましたが、川に戻してやりました。


爆弾が落ちてから2時間か3時間位経った頃

(1)ボロボロに焼けただれた皮膚をぶら下げている人

(2)体が真っ赤な裸で今にも崩れそうな人

(3)前に少しだけ衣類を着けているだけで、背中に何もない人

(4)女の人でもほとんど何も着けていない人達

が、次々と逃げてこられました。

私の母は、その人達のためにサラシを裂いたり、タオルを出してあげました。


どうして突然こんな恐ろしい事が起こるのだろうかと私はただ震えるばかりでした。この世の地獄だと子供心にも気付きました。


このようにしてせっかく広島の中心部から約10キロを非難して来られた多くの負傷者も次々と死んでいかれました。


私が良く可愛がってもらい大好きだった近所の中山清子さんも直爆を受け、1週間後になくなりました。女学校1年生でした。私が見舞いに行ったとき、彼女が「澄ちゃん、水を頂戴、水を」というので、私があげようとしましたが、周りの人から固く止められました。清子さんは、全身の半分以上火傷を負い、美しかった顔は普段の2倍以上に腫れあがっていました。言葉もほとんど言わなくなりました。


そんな状態の中でも澄ちゃんを呼んで来てとのことで私が駆けつけると「澄ちゃん、私はもう駄目だから私の分迄生きてね。」と苦しそうな声で、耳元でささやきました。4日目だったでしょうか。お医者さんが「水でも何でも本人が欲しいと言うものを与えて下さい」と言われましたが、彼女はすでに体が何も受け付けず、その3日後に亡くなりました。火傷の体には「うじ」が沢山わいていました。


その頃、村では毎日あちらこちらで葬式が行われました。みんな辛い悲しい毎日でした。


それから60年が過ぎ当時小学校6年生だった私も72歳になりました。しかし、今も静かに目をつむるとあの時の恐ろしい出来事、悲しい出来事が、まるで昨日の事のように瞼に浮かんでまいります。


あの原爆により、広島では20数万人が亡くなり、今なお多くの人々が高齢化の中で苦しんでおられます。また、その遺族、親類の方々の悲しみは、いくら歳月が経っても消えることはありません。


先月、中頃だったと思いますが、NHK広島放送局が平和公園で取材した青年たちの声を放送していましたが、その中の一人が「あの戦争がなかったら原爆は落とされてなかった。戦争は、絶対にやってはいけない」といった言葉が強く印象に残りました。私は「はっ」としました。冷静に考えて見ると確かに戦争と原爆は一体のものです。


あの大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まった昭和16年12月8日の時、私は7才で、小学校2年生でしたが、あの戦争は、正義の闘いであり、日本の勝利を信じて疑いませんでした。しかし、結果は、広島、長崎に原爆を落とされ、日本は降伏しました。「あの戦争がなかったら原爆は落とされなかった」と言った青年の言葉は正しいと思います。


広島平和公園の原爆犠牲者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」の祈りの言葉には、大変深い意味があると思います。


私はまことに微力ですが、これからも機会あるたびに、戦争と原爆の反対を訴えていきたいと思います。



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原爆の体験を語る:

外林秀人さん(2007年11月)

山岡秀則さん(2006年7月)

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