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外林秀人さん、原爆の体験を語る(2007年11月)


「1945年8月6日の外林の日記」


Dr. 外林秀人教授、ベルリン在住

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私は当時16才の中学生で、広島高等師範学校に設けられいたエリ−ト学級に通 学し、工場の勤労奉仕を免除され学習に専念していた。8月6日の8時から、 24名の学生が校舎の二階の角の部屋で化学の授業を受けていた。校舎は木造の 建物で、爆心地より1,5キロメメ−トルに位置していた。


2

8時15分、授業中、ピカッと巨大な写真のフラッシュのような光が目を貫き、 ドカンという音を耳にしたとき、建物が崩壊したらしい。日本語で閃光ををピ カ、ごう音をドンと言うので、広島の人々は原子爆弾のことをピカドンと名付け ている。


3

何がなんだか分からないまま、私が気がつくと、上のほうから光がさしており、 障害物を取り除くと自力で這い出すことができた。 建物は吹っ飛び、方々から 火の手があがっていた。


4

友人光明君が負傷して閉じ込められ、助けを求めているのが見えた。出口を塞い でいる材木を懸命に除き、彼を助けだした。そのうちに火が広がり、早く逃げな いと火に巻き込まれてしまいそうになった。誰か下の方から助けを求める声が聞 こえていたが、もはやどうにもならず負傷した光明君を連れて逃げた。


5

光明君は、片耳が切れて垂れ下がっていたが、歩くことはできた。そこから川を 二つこしたところに舟入の自宅があるのでその方向に待避しようと考えた。橋が 燃えていて渡れないので、小舟を探し、それに光明君を乗せ、それを押しながら 泳ぎ、二つの川を渡った。舟入の南の江波に診療所があることを聞き、光明君を そこに連れて行って、別れた。光明君は姫路の出身で、そこから自宅に帰り死亡 した聞いている。


6

私の舟入の自宅は爆心地より南2キロメ−トルの所にあり、木造建てであった。 ピカで干してあった布団に火がついたが、父が在宅しおり直ぐ消火したので、家 の全焼は免れた。


7

母は町内の勤労奉仕の日で、町の中心部で、防火のため道路を広げる作業に早朝 から出ていた。父は中学校の教師をしていたので、普通なら勤労奉仕の学生と共 に町の中心地にいたはずであったが、母が朝早く家を出たため出勤を少し遅らせ 家にいた。母が、もしその日が勤労奉仕の日でなければ、家にいて、父が町の中 心部にいたであろう。いずれにせよ、父か、母か爆心地にいる運命であった。も し原子爆弾がもう少し遅く爆発していたら、父も、母も町の中心部に居たであろう。


8

当時、田舎の知人の息子、沖増君を家に預かり、中学校に通学させていた。 父と私は 母と沖増君を探さねばならなかった。 先ず最初に沖増君を探すことにした。


9

彼の仕事場は爆心地近くの本川橋の近くと分かっていたので、父と爆心地の本川 橋の方に出かけたのは、昼頃であった。爆心地に近ずくにつれ、次第にそこはま さに地獄の様な光景になってきた。火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れ下が り、粉塵で真っ黒になり、幽霊のようにぶらぶらと歩いている人。子供の死体を 抱えて、気が狂っように叫んでいる人。


10

本川橋付近の光景もすさまじいものであった。多くの人々が水を求めてであろ う、川への下り口、階段に人が放射線状にぎっしりと詰め倒け、倒れていた。


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橋の上からみると、水面上には多くの死体が浮かんでいた。その死体の一つが、 沖増君のうつむきの寝姿によく似ているように思えた。それを確かめるために人 をより分けながら下の方に下りて行った。死んだように倒れている人が、みんな 生きており、”水を呉れ”、”わしの家に連絡してくれ”と足を掴んで頼まれるが、 どうすることも出来なかった。夢中で川に入り、泳いで目指した死体に到着し、 それが沖増君であることを確かめて、引き上げた。舟入の家に連れかえり、間も なく両親が田舎から出てこられ、沖増君の遺体を渡すことが出来た。6日の午後 3時頃であった。


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次いで、母を探しに、広島日赤病院に父と出かけたのは6日の午後であった。日 赤病院は、私が被爆した近くにあって、母が爆心地から逃げて、日赤に行ったよ うな気がしたからである。午前中は橋が燃えていて渡れなかったが、午後は火が 消えて歩いて渡れた。病院の建物はコンクリ−ト造りで崩壊せず残っていたが、 一部に火災が起きて次第に広がっていた。


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各部屋は負傷した人で満ち溢れていて、母を探して回ったがなかなか見つからな かった。火災が次第に広がり人々は移動していた。火の手が回る最後の部屋で、 幸運にも母を見つけだした。意識はしっかりしており、見た所何も傷は無かった が、動けない状態であった。発見がもう少し遅れていたら、そのまま火に巻き込 まれていただろう。母をリヤカ−に載せて舟入の家にかえったには6日の夕方で あった。


14

三日後、8月9日に母は死亡し、近くの畑で火葬に付した。35才であった。母 を見つけ、死に水をとり、野辺の送りができたのは、せめてもの気休めであった。


15

爆心地の近くの親戚や知人が、舟入の家に逃げてきた。怪我もなく元気そうだっ たが、やがて髪が抜け、歯茎から血がでるなど典型的な原爆病の症状があらわれ 8月中に次々と死んでいった。



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原爆の体験を語る:

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